しじまに響く慟哭が赤茶けた荒れ野にまるで染み込むように消えてゆく。  それは、体感にしておよそ60,000時間の経過を意味していた。  およそ230秒ほど無音の時間を経て、先ほどまで慟哭していた男、 通名ゲッツは、泣きはらした顔を上げ五体投地のような姿勢を解いてむっくりと起き上がった。  数歩歩いて、  (さてどこへ行こう。)  ゲッツは思案し、目に入った手ごろな岩に腰かける。  とにかく疲れていた。  ゲッツは、疲れていたのだ。  腕を無くし、友を無くし、女には振られ、責任を負った。  しまいには、気が狂うほどの孤独を味わわせられている最中だ。  未だ19歳の若者である。  消耗しきっていた。  (なぜこんな目に。)  (いつもいつも俺ばかりが、なぜ。)  脳裏に思い浮かぶのはこれまでの自分の半生である。  自分を愛さなかった母、無気力で、いつも遠くを見ていた父。  自分に懐いていた異父弟、彼を見捨てて、逃げた自分。  シリウスからきまぐれに受けた施し、強さへの憧憬。  傭兵マロウドから受け継いだ戦士の剣。  次から次へと記憶が目の前を流れていく。  (まるで走馬灯みてえだ。)  そう考えて、ゲッツはぞっとした。  心が負けつつあると感じたのだ。  彼の半身、覇王ガリはこの空間【十万億土】を精神世界と説明した。  そして、こうも言ったのだ。  勝敗は、精神の損耗で決まる、と。  (俺は、負けない。)  (生き汚さが、俺の強みだ。)  それからさらに2000時間ほどが経過した。  ゲッツは岩に座り続けている。  彼の相貌は、半眼にして、口元はぽかんと開き、よだれが少し垂れている。  見る人が見れば、その様子は白痴のようだと思うだろう。  だが、もし人が人の心の内を覗けたのなら、ひどく驚いたに違いない。  ゲッツの思考は、まるでマルチプロセッサだ。  自分への憐れみ、今後の展望、ネミリのこと、  マクロからミクロ、心にうつりゆくよしなし事を。  ゲッツはずっと並列して考え続けていた。  (石もて蛇を殺すごとく…)※1  (そういえば、ミモナの奴俺のこと好きだって言ってたな……ワンチャンあるか?)  (一つの輪廻を断絶して…)※2  (実際のところ、俺もまんざらでもない)  (意志なき寂寥を踏み切れかし。)※3  (しかし、一体どれだけ時間が経った?)  (ガリ、お前はどこにいる?)  思考回路はショート寸前、今すぐ会いたいよ……。※4  10000時間後。  ゲッツは、自分の体が、体という単一のものではなく  複数の部品からなることに思い至った。  頭、首、肩、胴、腰、ケツ、腕、手、足。  (!!)  ここで、ゲッツに電流が走る。  ゲッツはさらに、この部品が細胞からなり、細胞は更に細かいもの。  限界まで分解し、これ以上分けられない最小単位のもの。  現代風に言えば原子である。  原子で構成されていることに思い至った。  ゲッツは今、思考の海、内なる宇宙、ミクロコスモス、こころにアクセスしていた。  とりとめもないことをつらつらと、しかし体系立ててゲッツは深く潜ってゆく。  深く深く潜ってゆく。    (こころとは、どこに宿るのだろうか。)  (物事を考えるのは頭だ、しかし……。) しかしてゲッツは、こころが頭の中にあると感じたことはない。  こころの所在を思うとき、ゲッツは心臓のあたりを思い浮かべる。   (こころとは、どこに宿るのだろうか……。)  自分の体を細分化していって、一体どこからが自分で  どこから自分でなくなるのか。  (俺は、ここにいる。)  (俺という存在は、確かにここにある。)  (そも、俺とは一体何だ?)  (俺は、レギオンに右手を切り落とされた。)  (以前の俺と、右手を失った俺、どちらも俺だ。)  (しかし、もう以前の俺ではない。)   かつてゲッツは、第四元素【フォースエレメント】から授けられた 風のさとり【スピリットオブウィンド】の権能により、空を体感した。  空とは、あらゆる物体には実体がないという不変の事実。  その経験が、ゲッツの思考を加速させる。  (つまるところ、俺という存在は、色々な物体の集合で。)  (刻一刻と変化していく。)  (絶対的な俺は存在せず。)  (俺を象るのは、外界で。)  (ああ……!)  一時に、凄まじい情報量がゲッツを通り抜けていった。  ゲッツは、その情報を感じるままに任せた。  この感覚は、頭で考えれば虚ろになるし、とても言葉では表現できないだろうから。  詳しくは、般若心経を読んでほしい。  ギャーテーギャーテーハラギャーテー  ハラソーギャーテーボウジ―ソワカ ※1〜3 (萩原朔太郎の漂泊者の歌から引用。) ※4   (作詞者小田佳奈子ムーンライト伝説より引用。) 般若心経 (観音様が弟子であるシャーリプトラに対話方式で教えを説く物語)