オリンピック終わったのにまだ終わってなくてすいません。 これは、レギオンがボトムであった頃。 まだファンタジーランド南西部にイートンという国があった頃の話だ。 天涯孤独の家なき子であったボトムは、イートン王の気まぐれで城の下男になった。 長い下積みを経て兵士長アックスに将器を見いだされイートン家臣団に名を連ねる。 ボトムにとって人生最良の時代だった。 だが、その時代も長くは続かない。 自称単一ホモス民族国家の古豪、トリトートリ王国が近隣諸国と同盟を組みにわかに伸張し始めた。 同盟の提唱する理念、ホモス=真人間族の真人間族による真人間族のための国。 純血のホモスのみが民として認められる社会。 イートンにも同盟の使者が訪れ、同盟に加わるよう要請があった。 要請とは建前、任意という名の強制である。 イートンの人口比は、ホモスが8割、それ以外が2割。 同盟に加盟することは、2割の人口を捨てることを意味する。 決して無視できる数字ではない。 今後覇権を握るであろう大国の傘下に入るのか、独立を守るのか。 議論は紛糾し、何も決められないまま全ては王の採択に任される。 だが、イートン王ノイは、穏やかで優しい人柄で、そして優柔不断だった。 結局何も決められないまま、時が過ぎていく。 乱世の時代、それはあまりにも罪深いことだったのかもしれない。 王への失望、やがてそれは怒りに取って変わった。 未だ大衆が王政の揺りかごであやされていた時代、シビリアンコントロールという概念がまだ生まれていない時代である。 武力を握る者が、あまりにも自由でありすぎた時代だった。 クーデターが起こった時、ボトムは王城へ続く道を遮る堀に設置された跳ね橋前にいた。 自身が率いる100名の部下を3つの小隊に分け、三列縦隊を敷き、即席のバリケードとする。 「中隊長、跳ね橋前封鎖完了しました。」 「ご苦労。」 もっとも、跳ね橋を上げる装置もすでにボトム達が抑えている。 橋を上げてしまえばここを封鎖する意味などないのだが、クーデターに失敗した場合 そのまま自分たちの逃げ道を失ってしまう。 そういった理由で少なくない兵力をここに置いていた。 最もそうなる可能性は非常に薄い。 城内の主だった者は、軟禁されているか、事態を静観している。 こんなところに100人置くくらいには人手が余っているということだ。 ボトムは、頭上の天守を見上げる。 釣られて伝令も見上げて言った。 「今頃、禅譲が行われてるんですかねえ。」 「……。」 禅譲。 武官のトップ、マルチナ将軍が起したこの軍事クーデターの目的は、王太子に王位継承させることだ。 王太子オイ、彼は軍部との結び付きが強い、独立派の急先鋒だ。 もっとも、オイのそれは大局観からくる判断ではなく、彼の面子やプライドから根差したものだ。 それに振り回されているオイは、大した人間ではないことを示していた。 だが、それが何だというのだろう。この国において、王は神輿だ。 神輿は軽い方が良い。担ぐ側からすれば大切なのは正統な血で、頭の中に何を詰め込んでいるかは別に問題ではないのだ。 ボトムは頭を振った。 特段愛国心が強い人間ではない。 だが、イートン王ノイには恩がある。 ノイの手は暖かかった。それに、あの洋梨の味……。 ボトムは、ノイに光を見た。 誰からも必要とされず、獣同然に生きてきたボトムに居場所をくれたノイ。 与えられた居場所、積み上げたキャリア、人間関係。 気づけば、こんなところに立っている。 ボタンを掛け違えた違和感が、いつの頃からかボトムの心を苛んでいた。 ボトムは傍らに佇む伝令を、後方に立つ兵たちを見た。 天下国家の為、決して私利私欲のための武力行使ではない。 現場働きの兵士はそれを心の底から信じている。 ボトムはそれが滑稽に思えた。 この国は、先がない。 ボトムの合理的な思考が、イートンの先行きを既に見通していた。 唯一の道は、同盟に臣従することだった。 だが、オイの無駄に肥大したプライドが邪魔をしている。 家臣団も変化を嫌う、保守的な者ばかりだ。 要するに今の体制を維持したいだけで、かといって何か考えがあるわけでもない集団が独立派で、自分はその走狗というわけだ。 先を見通す力のない者たちが、曲がりなりにも長年この国の舵を取ってきた文官を今日、武力で黙らせた。 その報いは、近い将来この国に降りかかるだろう。 突如風切り音が聞こえ、ボトムは反射的に腰の斧を抜き払った。 鈍い金属音がして、掌が痺れるほどの衝撃がボトムの右手を襲う。何かが足元に落ちた。 手斧だ。 「えっ。」 隣に立つ伝令が間の抜けた声を上げた。 まだ状況を把握できていない。 市街地の方から手斧が飛んできた。 敵襲だ。 ボトムは叫ぼうとして、次々飛来する手斧に気づいて迎撃する。 (敵は、一人。それにこの手斧!) 「てっ敵襲!」 伝令がようやく仕事を始めた。 (判断が遅い!) 手斧の乱舞、この理力を用いた技には覚えがある。 ボトムの胸中を苦いものが走った。 (アックス兵士長……!) アックス兵士長、ノイに次ぐボトムの恩人だ。 王の身辺を警護する近衛の長だったが、昨年膝の皿を割ってしまい引退していた。 引退してからも、ボトムはアックスと交流があった。 ボトムにとってアックスは、父のような存在で、アックスもボトムをかわいがっていた。 斧を偏愛する変わり者で、だが忠義心の篤い歴戦の雄。 恐らくはイートンで最も強い戦士のひとり。 全盛期の戦闘力は1000を軽く超えていた。 雑兵100人では荷が重い。 ボトムは即座に決断した。 「城内に転進!跳ね橋を上げろ!」 言いつつボトムは斧の飛んでくる方へ駆けた。 伝令は、ショックから立ち直って粛々と仕事を始めたようだ。 兵たちの移動は早い、背中から伝わる気配でボトムはそれを察した。 我ながら、良く鍛えた。 「アックス様、ボトムです!攻撃をやめてください!!」 言いつつ、斧を握りしめた。手汗でぬめる柄の感触にボトムは顔をしかめる。 アックスは、太陽を背にしていた。逆光で顔が見えない。 (理力の斧、無から生み出す魔法の武器……。) いつか見たアックスの魔法。 ボトムがついに習得できなかったもの。 「我々は国のために立ち上がった義士です。一滴の血も流させるつもりはない!」 「王には隠居していただく、これからこの地は荒れる!民心を安んずるには強い王が必要なんです!」 ボトムはとりあえず耳障りのいい言葉を列挙した。 跳ね橋が、キシリと音を立てて、振動し始める。 兵たちが装置を起動したのだ。 その時アックスが口を開いた。 「ボトム、心にもないことを言うな。」 アックスの声音は笑っている。 ボトムの心臓が跳ねた。 「お前は俺と同じだ。別に、そんなことはどうでもいいんだろう。」 「俺は、王に果たすべき義理がある。」 「そう、義理と人情ってやつだ。」 アックスはにやりと笑った。 「あんた一人なんだろう!?、悪いことは言わないから引いてくれ!」 ボトムは祈る思いで怒鳴った。アックスが義理で王の元へ参じようとするように ボトムも、アックスに果たすべき義理があった。こんなところで斧を向けるのは不義理だと思った。 「あんたの全盛期は終わった、戦えば俺が勝つ!あんたには恩がある、殺したくないよ!」 「お願いだアックス様!」 跳ね橋が上がっていく。 アックスは笑って言った。 「断る。」 「人の情けにつかまりながら折れた情けの枝で死ぬ。」 「一人ぐらいあの、お人よしの王に殉じる奴がいてもいい。」 ボトムは唇をかみしめた。 義理と人情。立場というものができてからというもの、ずいぶん遠い言葉になってしまった。 しがらみの鎖に雁字搦めになり、気が付けば義理を果たすべき相手に斧を向け、退位させようとしている。 だが、もう止まれない。 ボトムは斧を肩で担いで、腰を深く落とし、左半身の姿勢を取る。 それを見てアックスも右膝を庇うようにして同じ姿勢を取った。 互いにすり足で、距離を詰めていく。 斧の届く距離に達した時、そこが二人の最後の別れとなるだろう。 惜別の情をこめてボトムはアックスに語り掛けた。 「アックス様、次の一撃でお別れです。」 「うむ、一撃に全てを乗せるのだ。斧への愛をな。いざっ。」 二人が一足一斧の間合いに入った。 堀の向こうからこちらを望む兵たちがあまりの緊張感にまばたきすら忘れて見入る。 永遠にも思える一瞬。 斧が日光を反射して光の軌跡を2条描いた。 遅れて金属が砕ける音。 流れ出る深紅の血。 倒れるアックスをボトムが慌てて抱きかかえた。 「アックス様、今介錯を!」 大地に横たえる。 ボトムの一撃はアックスのはらわたを容赦なく吹っ飛ばしてしまった。 もう助からない。 急いで介錯しなくては。苦しみが長引かないように急いで。 だがボトムの手は震えて、右腰の手斧をうまく抜けなかった。 頭の中はひとつの疑問でぐるぐると煮立っている。 だから急がないといけないのに、つい聞いてしまった。 「なぜ、どうして途中で斧を振るうのを、止めたんです。」 アックスは脂汗をかきながら、それでも冷静に答えた。 蚊の鳴くような声で答えた。 「どういうわけか、手が……手が震えてな。」 「手が震えて、力が、入らなかったよ。」 ボトムの目から涙がこぼれた。 涙がアックスの青白い頬を濡らす。 「泣くなボトム、俺は義理を果たした。」 「お前は生きろ、生きて、斧を極めるんだ……。」 「痛くて堪らん。お前の斧で送ってくれ。」 痛みに震えるアックスを見て、ボトムの震えは止まった。 もう、迷わない。 ボトムは手斧を振りかぶった。 「…浪花節だよ人生は。」 それがアックスの最期の言葉となった。 ボトムは立ち上がり蒼天を見上げた。 胸中を荒れ狂う激情がある。ボトムは生来持ったことがないこの感情の赴くまま雄叫びをあげた。 兵たちが、その雄叫びを勝どきと見て、次々唱和する。 野蛮な原始の咆哮が止まない中、ボトムの心に変化が起きていた。 そしてカチリと何かがかみ合う音。 気づけば自分の周囲を守るように2本の手斧が回転しながら浮遊している。 「あっあ?」 それは、理力の斧だった。 斧への愛、その昇華の結晶。 いつかアックスがボトムに語った言葉。 (アックス様の置き土産だ。) その時天守から歓声が上がった。 風に乗ってイートン万歳の声が響いた。 首尾よくオイが王位を継承したのだろう。 兵たちがそれを聞くや、笑顔で万歳三唱を始めた。 ボトムはそれを冷めた目で見やると、アックスの亡骸を抱きかかえて歩き出した。 (義理と人情、俺には遠い言葉になってしまった……。だが。) ボトムは決意した。 己の全てを賭けて、この国を守る。 あの日の洋梨の義理を、今度こそ果たそう。オイのためではない、退位したノイのために。 だがその誓いが成就することはなかった。 2021/8/9 年明けの春を待って、同盟はイートンへ進軍を開始した。 笑ってしまうくらいの大軍勢、完璧な兵站、イートンはたちまち同盟の手ですり潰されていく。 口では勇ましいことを言っていたオイ王は、もはや幽鬼のような表情で日々を過ごしている。 初戦で大敗した際は、こちらが驚くほどの変心を見せ、同盟に降伏の使者を送ったが その使者は翌日首だけになって帰ってきた。 この国を徹底的に滅ぼして、周辺諸国への見せしめとしたいのだろう。 なお、クーデターを指揮したマルチナ将軍は、初戦で惜しくも戦死した。 死因は背中に受けた裂傷。誇らしい。 (何の役にも立たんかったな、あいつ) 世襲の3世将軍に、周りのブレーンも2世3世で固めていた。 自然保守的な気風が生まれ、異質なものは排除されていく。 優秀だがエキセントリックだったアックス兵士長がいい例だ。 あれだけの能力を持ちながら、近衛という華やかだが閑職に追いやられた。 まあ、アックス兵士長も2世だったのだが。 名のある戦士たちも次々と討ち死にした。 職業軍人の数は減り、徴兵された民兵が今や軍の中核である。 当然士気は低い、無能な王と国体に憎しみすら抱いている。 同盟がこの国を支配すれば、奴隷扱いでもしない限り、きっともろ手を挙げて歓迎するだろう。 要するにもうこの国は詰んでいるのだ。 上官たちはいつの間にか死んだり、蒸発したり、体調を壊したりして消えた。 笑ってしまうことに、気づけば野戦任官で、本来であれば中隊長のボトムが師団長に任じられている。 ボトムは今やイートン北方の要塞を軸とした防衛線を統括する立場にあり、日々押し寄せる同盟軍と戦っていた。 ここを抜かれれば、もう王都までは目と鼻の先だ。 幸いボトムには、万の兵を操る稀有な才能があった。 情緒に乏しい少し浮世離れした、平時であれば人に嫌われる要素も、ここではカリスマとして好意的に受け取られる。 そのカリスマと才能をもって、イートンの最終防衛ラインは今日まで一進一退の攻防を繰り広げてきた。 本当にギリギリの一進一退だ。 だが、遠からず限界は来る。 現に、補充で送られてくる兵の質はどんどん落ちている。 最近では、送られてくるはずの兵が届かないことも多い。 皆、途中で逃げてしまうのだろう。 開戦からまもなく半年たつ。 季節は晩秋に差し掛かる。望みがあるとすれば、冬の到来による自然休戦だろうが。 そこまで何とか踏みとどまれれば、とりあえず一息つけるだろう。 (休戦期に入ったところで、次の春で詰みだけどな。) もう終わりだよこの国。 ボトムの思考はいつもそこで止まる。 元々、同盟に加わらない時点で終わっているのだ。 家中の保守的な空気、新王の気性、地理的要因。 いずれも失敗の原因の一つだろうが、結局形あるものはいつか滅びるのだ。 ボトムは同盟のやり口に、いっそ感心さえしていた。 同盟は、どこを着地点にしているのだろうか。 ホモスをまとめて、東の諸部族を滅ぼし、この大地を統一するつもりなのだろうか。 そういえば、同盟の雇ったマギリンディーゾック率いる傭兵団聖なんとかかんとかというのもいた。 一兵一兵が戦闘力1000を超える化物集団だ。 現在は西域の戦争に出張っているらしいが、いつこちらに現れてもおかしくない。 現れたら今度こそ終わりだろう。せいぜい戦いが長引けばいい。 ボトムは、胃の痛みを覚えて顔をしかめた。 (先王の、イエスともノーともとれない玉虫色の対応。あれもひとつの正解だったのかもな。) 引き伸ばしにしかならなかっただろうが、こうまで苛烈に攻め立てられることはなかったかもしれない。 (その間に、東の連中と連絡を密に取り、協力関係を結べればあるいは……嫌、無理だな。) 結局は部族の集まりなのだ。国という単位に至っていない。大局というものがない。 (しょせん、人に劣る奴らだ。) イートンも手をこまねいていたというわけではない。 首脳部は同盟の危険性を東の亜人部族に伝え、こちらに協力するよう求めてはいたが、 これまで実のある結果には至っていない。 彼らもオイと同じで、目先のことしか見えていないようだ。 遠い同盟の脅威より、近くの敵というわけだ。 彼らは、隣接する部族と争うことに心血を注いでいる。 その憎悪の深さは、ホモス同士の争いの比ではない。 種族が違うため、混血することがない分憎しみが薄れることがないのだろう。 彼らはホモスには時に驚くほど素直だが、敵と認定した種族には悪逆非道になる性質があるようだ。 東域の現状は、はっきりいって滅茶苦茶だ。それこそ四族すべてが滅びるまで争い続けるのではないかといった、 さながら無間地獄の様相を呈している。 (あいつらに頼ろうとしてるようじゃ、もうおしまいだ。) 現に終わりは近い。 ボトムはすでに死を覚悟していた。 彼は淡白な人間であった。 それは生まれた境遇や、幼少期の獣のような生活が、彼の情緒を十分に育てなかったからかもしれない。 (生きるは死ぬの始まり。死ねば無になる。) それはボトムの死生観。幼少時の過酷な生活をしていく中育まれていった哲学に似たもの。 (本当にそうか?) ボトムは、右腰に下げられた手斧を見た。 この斧は、アックスが理力で生み出したものだ。 アックスが死してなお、斧は残った。 ならば、滅びないものもあるのだろうか。アックスとの別れ以来、ボトムはわからなくなった。 そして心残りが生まれた。それは先王ノイのことだ。 (なんとしてもお守りする。国体はもう無理だ。だが先王の命だけなら……。) ボトムの中に、一つの構想があった。 それは、イートンという国を捨て東域へノイを連れて逃げることだ。 イートンが平定されれば、国内の亜人は弾圧されるだろう。 その恐怖が今、目前に迫っている。彼らを味方につけるのだ。 元々部族間の争いを嫌って、ホモス領域に逃げてきた者たちだ。 もう逃げる場所はない。死に物狂いで盛り立ててくれるに違いない。 彼らを中核とした軍事勢力を作る、どこに? (いや、土地に縛られる必要はない。今は乱世なんだ。武力を売り、それを買う所に流れていけばいい。) (傭兵……そう、傭兵団だ。) (だが時が、何もかもが足りない。) (……いや、国体維持はもう必要条件じゃねえんだ。) ボトムは思考をめぐらす。 (イートン平定は、同盟に逆らった国がどうなるかの示威行為だ。だが戦いが長引けば舐められる。) (冬までに何としても落としたいはずだ。そのためにはこの要塞に敷いた防衛線をぶち抜かなきゃならねえ。) (だが、この防衛線はちょっとやそっとじゃ落ちねえ。このままじゃ奴らの面目は丸つぶれだ。) (そこに同盟と、交渉する余地がある?) 幸い、自分はもう中隊長ではない。 戦時特例ではあるが、今や2人しかいない師団長でこの防衛線の最高責任者なのだ。 自分が頭の軍閥、傭兵団を作るという構想にボトムは年甲斐もなく胸を高鳴らせる。 (無能に使われるのは、もう沢山だ。) (どうせ使われるなら、有能な奴、そして……。) あの日の光景が、ボトムの眼前に広がった。 獣のように茂みに身を潜め、丘の上で休憩していた貴人を眺めたあの日。 旨そうに飯を食っていた。まともな食い物を見るのはいつぶりだろうか。 不意に腹が鳴った。その音の大きさときたら、貴人を守る騎士に見つかるぐらいだった。 茂みから引っ張り出され、地面に組み伏せられた。 貴人は、ゆっくりとこちらに歩いてくる。 手に持っているのは、ああ、あの甘い匂いときたら! 「食べるか?」 西日が眩しくてあの時貴人がどんな顔をしていたのかわからない。 だが、その声色はとても優しかった。 あの日の光の眩しさ、まるで後光がさしているようだった。 (決めた。) かなりの無理筋だが、ボトムの腹は決まった。 どうせいつか人は死ぬのだ。 なら、少しでも可能性のある道を選ぶべきだ。 (今度こそ、義理を果たそう。) アックスを殺して以来、ボトムは何よりも義理を通すことに執着していた。 それこそが人と獣を分かつ分水嶺なのだと思っているのだ。 その日も薄暮時に戦闘を終えた。 要塞前に倒れた死傷者を同盟の兵が回収していく。 ホモス同士の戦争における暗黙の了解で、この作業中は決して攻撃を加えてはいけない。 同盟の兵たちは時折頭上から矢が射かけられやしないか、ビクビクと上を伺いながらも黙々と作業に没頭している。 今さら描写するが、要塞は分厚い石材を積み上げて、モルタルで隙間を埋めており投石や理力を用いた 衝撃波でもビクともしない。 高さは8メートルほど、ネズミ返しが3段ついている。 要塞の外壁を走る通路は、要所要所にトーチカのような形状の建物があり、そこに設置された連弩が 遮蔽物のない平原を飛び交う。腐っても大国の最終防衛ラインだと言える威容をしているのだ。 その要塞の門が突如開いた。 同盟兵たちに緊張が走った。 最初に彼らの目に入ったのは白い布、これは白旗だ。 白旗を掲げた10名ほどの一団がゆっくりと要塞から徒歩で出てくる。 その一団は、要塞から1キロメートルほど離れた地点に布陣する同盟軍の陣地へ真っすぐ向かっていく。 要塞近くにいた同盟兵たちはそれをぽかんとした顔で見送った。 目端の利く同盟兵が一人、自らの陣地に駆けていく。 それから一月かからず、イートンは落ちた。 同盟の勝利に、同盟が雇った傭兵団【火車】が一躍買った。 火車。後に東部ファンタジーランドを席巻するこの精強な傭兵団が、歴史に初めて名を刻んだ戦い。 彼らがどこから来たのか、それを知る者は少ない。 千を数える軍団を3つ持つ旅団並の軍事力。ホモスだけではない、雑多な種族の混成でできた傭兵団であった。 それを率いる傭兵団火車の長、その名はレギオンといった。 レギオン率いる火車は、長く落とすことの叶わなかったイートンの要塞からなる防衛線を、半刻もかからずたちまち陥落させる。 戦闘の痕跡はほぼなく、要塞につめていた兵たちはその半数が行方不明となった。 防衛線を抜いた同盟軍はイートンの首都に一気に攻め寄せた。 もはやこれまでとイートン王オイは毒の盃を呷り、王に連なる者とその家臣団はことごとく自刃するかさせられた。 単一ホモス民族を標榜する同盟の旗がイートンの地に立つ。 あっけないほど簡単に国が滅びた。 その後の統治は、イートンの民に概ね好意的に受け取られた。 秋の収穫に間に合わせるかのように終わった戦争。その収穫の租税は、減った民間人の痛手を考慮して四公六民、ならば民に何の文句があろう。 ただ、亜人達は悲惨なことになった。 人口の2割を数えた亜人達は、同盟兵や隣人たちに弾圧されて死ぬか、殺されるよりはマシと方々へ逃げ去った。多くは東域へ行き、鋤を持つ手を槍に変えた。 ここに大東亜戦争の前哨戦、イートン戦役は終わりを告げる。 その後のことだが、レギオンは雇われればどこの戦場にも現れた。 妙なる戦術といくつもの戦場を渡ってきたのだと確信させる慎重で安定した軍団の運用。 いつしか引く手あまたとなり、火車の規模は膨らんでいく。 東域のキングメイカー、傭兵王などと呼ばれるようになったレギオンだが、唯一同盟を相手どる戦には損得を度外視して戦った。 火車の中核メンバーに亜人出身者が多数いたこともその理由のひとつだろう。 その後しばらく火車の躍進は続いたが、盛者必衰の理をあらわすように終わりは訪れる。 後に東域の支配権をめぐる大東亜戦争が勃発した際に同盟軍と三度の激突を経て大敗を喫し、歴史の舞台から姿を消した。 そして抜け殻のような男が残った。 義理を果たせず、夢破れた者。 男の名はボトム。 2021/8/10 波濤のように押し寄せるヨモツイクサを超質量の鈍器が突き崩していく。 ドスの妙技、ミリオンスタッブだ。 押しつぶされ、撹拌される中隊規模の鬼達、そのキルゾーンを迂回するようにヨモツシコメと呼ばれる巨大な陸貝の一団が高速で走り抜けた。 ヨモツシコメに騎乗するヨモツイクサが、次々と長物を構えてドスに殺到する。 その勢いでドスの横っ腹に斬りかかろうとしているのだ。 その時、いくつものピンク色に輝くハートの形をした塊がヨモツシコメに着弾した。 クリムトの聖衣が持つオーソリティのひとつ、理力の光弾だ。 光弾を受けたヨモツシコメが消滅し、地に投げ出されたヨモツイクサを、ゲッツの理力技ミラージュソードで処理する。 ジョンも当たるを幸いと、二刀を振り回しながら敵を切り伏せていく。 ふと、ゲッツの耳が鳴り筈の音を遠くに捉えた。 (五蘊皆空……。) 放たれた矢が、雨のように絶え間なく4人に降り注ぐ。 その手前でゲッツは風のさとりを展開した。 四人の体を矢が透過し、反転して射手に向かい再び放たれる。 当たったかどうかはあまりに遠すぎて見えない。 ゲッツはマロウドの理力剣を握りしめて身構えた。 そこでようやく彼我の距離が開いていることに気づく。 鬼たちが再び隊列を組みなおしているのが遠くに見えた。 隙間時間ができた。これで一息つける。 ドスが腕を止め、肩を回して愚痴をこぼした。 「キリがねえや。」 そう思うのも無理はない。 戦端を開いて一刻ほど、未だ敵は雲霞の如き大群である。 皆疲れていた。 一人一人が一騎当千、ドスに至っては国を亡ぼすほどの力を持っているが人間である以上、疲れればミスが増える。 そろそろ危険な領域に突入していた。 「一か八か、風のさとりを展開して、城まで突っ込んでみるか。」 ゲッツが思いつめた顔で提案する。 あの距離、風の膜を展開しながら4人を守って到達できるか?行ける……いや。でも行くしか。 ゲッツが鬼気迫る表情で白い城を睥睨しながら考えていると、クリムトがやんわりと却下した。 「よそう。何があるかわからない。」 「でも、このままでは……。」 遠からず数の暴力で全滅する。 敵が何故か波のように寄せては引くのを繰り返すので、その隙間の時間で持っているだけだ。 その時、ドスがガイアソードを大地に突き立てた。 皆何事かとドスを見る。 ドスは剣の柄を両手で握りしめながら言った。 「今から砦を作る。」 皆の頭上にクエスチョンマークが浮かぶ。 ガイアソードが明滅を始めた。 ドスがエネルギーを物質に転換しているのだ。 諸行無常。 地のさとりが発動する。突如、地面から岩が生えた。 石灰の大地から明らかに地質の違う岩が生えている。その岩はまるで生きているかのように急激に成長して岩壁となった。 さながら桂林の岩山、千葉県安房郡鋸南町と富津市との境に位置する標高329.4メートルののこぎり山の山頂部分のようだ。 岩壁はさらに厚みを増しながら縦横に走り、やがて立方体となった。 かと思えば、立方体の前方が突如陥没し堀ができる。 高さ10メートル、縦横200メートル、グレーの分厚い岩で構成された砦の完成である。 ドスの突貫工事に要した時間はわずかに178秒。三分ビルディングである。 その様子をゲッツ達は、耳が痛むほどの轟音と地震のような振動に耐えながら呆然と見ていた。 「えっすごっ。」 「すごーい。」 「もう全部ドス一人でいいんじゃないかな。」 皆すごいすごいと連呼する機械になってしまった。 これにはドスも満面の笑みをこぼした。 「仕上げだぜ。」 ドスが塩を一つまみして食材に振りかけるようなポーズを取った。 砦の頂上、中央に8メートル四方の小屋ができた。 ゲッツがおそるおそる中を伺うと、そこには花崗岩でできたテーブルと人数分のイス、寝台があった。 「やっぱ、ライフワークバランスが取れてないとな。」 さすがはドスだ。 妻がワクチン接種して副反応でダウンしているから子供の面倒を見るために休みを申請したら ため息をつかれるようなどこぞの島国のどこぞの古臭い集団とは違う。 「地のさとりって何でも作れるのか?」 ジョンが皆を代表して言った。 ライフワークバランスも大事だが、これを攻撃に利用できないかと考えるのは当然のことだ。 ドスが眉を八の字にしながら答える。 「できるんだろうが、できない。」 「???」 「どうもこれは俺の限界みたいだな。難しいこと、複雑なこと、自分から遠い場所での操作はできない。」 ドスが言いたいのは、自分の理解を超える構造の物や知らない事を含む物質は作れないということだ。 我々の歴史で言うと、坂上田村麻呂が志波城を築いた頃のケルト人と同程度の文明レベルの住人である。 機関銃を作れと言われて作れるわけがない。 皆わかったようなわからないような顔をして、ひとまず表に出た。 何とはなしに下を見ると斥候だろうか、ヨモツシコメに騎乗したヨモツイクサの一団が砦の周囲を偵察していた。 ドスが真下に石の杭を生やした。 何体かくし刺しにしたところで、残りは自分たちの支配域に逃げ帰っていった。 「……。」 ゲッツは何か引っかかるような、歯に食べかすが詰まったような顔をしてそれを見送る。 どうもおかしい。 あれほどの大軍で、どうしてこんなに攻め気がないのだろうか (俺だったら、どれほど犠牲が出ようと休まず攻め立ててすり潰す。) あれだけの数だ、多分これが一番速いと思います。 (それに、魔将が出てこないのも気になる。) ヨモツイクサを統べる火の魔将レギオン、それ以外の魔将を現在まで確認できていない。 あの大群の中にいるのだろうか、それとも。 ゲッツは遠くに見える白い城を眺めた。 常夜の王、アコードを守っているのだろうか。 (アコード、何を考えている。) 男の体に女のこころ。アコードは今流行りのLGBTというやつだった。 流行りというのは適切な表現ではない。発言を訂正する。 一世を風靡しているLGBTであるが、しかしLBGTとは一体何の頭文字なのだろうか。 LGは何となくわかるがBとTが未だによくわからない。 話を戻す。 (以前は、狂ってはいたが何か信念のようなものを感じられた。) (だが、今のあいつからはそれが感じられない。) (何か大事な、人としての芯のようなものが抜け落ちてしまった。) それが何かはわからない。 水の魔将として現れたアコードの分身を倒し、常夜の国で再開する間に アコードは性別を変えていた。 それが原因だろうか。 今のアコードは抑圧から解放されて、ただ情動のままに動いている。 ゲッツはそう感じていた。 そのアコードに動きがない。 (俺の中に眠る神の器を手に入れるのが奴の狙いのはず。) (だが、奴はこころの世界で失敗した。ガリに撃退されて以来沈黙を保っている。) 不気味であった。 だからゲッツは、その不安を胸の内にしまわずに3人に話した。 報告・連絡・相談。集団活動の基本である。 「そりゃつれえでしょ…。」 「ちゃんと言えたじゃねえか。」 「聞けて良かった。」 「その流れもういいから!」 その後も敵は何度も押し寄せてきたが、堅牢な壁と4人の戦士達の活躍により都度撃退される。 変わったことと言えば、攻め手に巨大な人面鳥「告死鳥」の姿を見ることが増えたくらいだろうか。 あの規模の大群にしてはあまりにも散発的な攻撃を繰り返すばかりだ。 ここにきて4人は増々疑念を深めていく。 「これは、やはり足止めを喰らっているのかもしれない。」 小屋の中でゲッツ、クリムトの2人で休憩を取っている時、ふいにクリフトが言った。 なおドスは表で敵陣を見張っている。 「魔将やアコードが出てこないのもおかしい。ここで決着をつけるのが筋というものだろうしね。」 我が意を得たりとゲッツが話に喰いついた。 「やっぱりそうですよね! どう考えてもおかしいんだ。」 「ただ、そうなると何故足止めをする必要があるのか。」 これがわからないとクリムトが呟く。 ゲッツは少し目をつぶって黙考した。思いついたことをつらつらとクリムトに述べていく。 「ひとつ、相手が馬鹿。」 「それはないと思う。特に火の魔将は戦上手だという話だしね。」 「ふたつ、敵は一枚岩ではない。」 「うーん、どうだろう。3人集まれば派閥が生まれるって話だし、身につまされるところもあるんだけれど。」 クリムトは渋い顔をした。何せクリムトが大僧正という愛の国の最高位の僧になったのも、その派閥争いの結果なのだ。 「常夜の国というシステムの都合上、それはないかな。王がいてはじめて維持できるのが常夜の国というものだ。」 現実と違ってね、とクリムトは繋げた。 「常夜の王がいなくなったら常世を、輪廻の大渦にふたをする者がいなくなる。」 「そうなれば、このヘドロで構成されたものも、輪廻の大渦に還っていく。国の終焉だ。」 「敵も、それは望んでいない。……望んでいないんじゃないかな。」 「どうだろうな。」 その時眠っていると思われたジョンが声を上げた。 寝台からむくりと身を起こし、体を伸ばしながら続ける。 「俺は、これまで2体の魔将と戦った。あいつらは、あの虫みたいなやつらと違って自分というものを持っている。」 「人間に近い感性をもっているとして。」 「そんな奴らが、こんな牢獄みたいなところにいたいもんかね。永遠に同じことを繰り返したいもんかね。」 皆唸った。 その通りなのだ。常夜の王は、現世にまで手を伸ばしてこの世を常夜の国にしようとしている。 死者の楽園とかいう何の刺激もない、スーパー銭湯のような世界だ。 「まあ、考えてもわからないけどな。特に人間の内心なんてもんは。」 「確かにね。それじゃあこの話は深堀をやめよう。他に考えられることはある?」 ゲッツは遠くを見ながら、輪郭のない考え、思考の欠片をもてあそんだ。 常夜の王。王なしでは存続できない常夜の国。 魂が還り、また旅立っていく場所、常世。 輪廻の大渦とそれにふたをしているアコード。 どこにもいけない無数の魂。 ステルメン先生達はどこへ消えたのだろうか。 消えたといえば、アコード。 ファイナルフォースとなったガリ。そのガリの全力の一撃を受けて、常夜の国へ逃げ帰った。 逃げた。千載一遇のチャンスを。世界を巻き戻すという力技でふいにされて。 しかし、あれは誰がやったんだろう。まさかアコードじゃあるまい。 「あっ……。」 その時ゲッツに電流が走った。 (そうだ。あいつはガリの全力のタックルを受けたんだ。) 奴が風のさとりを使えるという話は聞かない。使っているようにも見えなかった。 水のさとりで世界を巻き戻すことはできるようだが、ガリの記憶を垣間見る限り、何のリスクもない様には見えない。 (ガリの一撃のダメージがでかい。それか、水のさとりを使った副作用か何かで動けないのでは?) ゲッツは頭の中でその可能性を何度も考えてみる。 (……あり得る。) 2021/8/24