2022/11/1 戦いの趨勢は危ういところで均衡が保たれていた。 無限と無数の戦い。天秤は未だどちらの側にも傾いていない。だが、この均衡が長続きしないであることはもはやたれの目にも明らかであった。 ドスが息切れをしている。トゥルーマンはさらに薄くなった。ルコンも、常夜の王の腐食の息から皆を守ることにリソースが割かれて大胆な攻勢にでられずにいる。 涼しい顔をしているのはジョンくらいだ。ジョンがテレパスを駆使して、時に予知めいた警告をし、周囲を鼓舞する。 ジョンがいなければもう破綻していたかもしれない。ルコンは、巨大なブラストを己の正面に発生させて、常夜の王に向けて撃ち込んだ。 ドスが風圧に負ける。十数メートルほどの高さに吹き飛ばされた。マルチタスク化したルコンの思考のひとつがあっと思うも、ドスはガイアソードを自在に伸縮させてきれいに復帰した。 こちらを見上げ、にやりと目だけで笑って常夜の王に向き直る。 その間に巨大な空気の塊は、あの醜さを誇張したような、赤子の頭に着弾する。巨大な破裂音。 生後まもない子が頭をぶつけてしまった時にびっくりするくらい腫れて母親が泣いて取り乱すような。 そのくらいにでかいたんこぶができあがった。 たんこぶから空気の漏れる気配がした。間を置かず破裂すると、周囲を腐り落ちた果実のような甘く濁った匂いがたちこめ、すぐに清浄な風が吹き散らしていった。 じり貧だ。ルコンの冷静な思考が、自分達の未来の敗着を告げる。どこかで勝負に出る必要があった。 それに、とルコンは思った。アコードは魂を喰って己の力に変える。常世が空っぽなのは奴がここにある魂を全て食ったからだ。 こうしている今も地上からくる魂を取り込んでいるかもしれない。 そんなことを考えながらリズミガンの魔道を青嵐の両腕でいなす。 (大丈夫だ。奴はもう一口だって食えやしないんだ) (機を待て。辛抱強くな) ジョンの、確信を持った強い声。ルコンはそれを不思議に思った。なぜそんなことがわかるのだろうか。 それにジョンを見ていると、なんだか無性に悲しくなるのだ。 ルコンはそこで思考を止めた。今は考えたくないとセンシティブな部分が強く訴えている。 ルコンはジョンについての思考にそっと蓋をした。そうしてすべての思考を常夜の王の一挙手一投足に集中する。 破綻は近い。だがルコンは、強引な攻勢に出るのではなく、ジョンの助言に賭けてみることにした。 大戦斧がガイアソードと衝突する。強烈な振動。ルコンは大戦斧を生成しては放ってくるボトムを見た。 赤子から生える、自我のない巨人。 ルコンの目にはそれが常夜の王につながれた父の亡骸に見えた。 少しでもはやく、そこから解放してやりたい。 だからこそ今は耐えるのだ。 見るとドスもトゥルーマンも攻勢を捨てて守勢にまわっている。 深く静かに、ルコン達は機を待った。 やがて訪れるその瞬間を。 あるパラノイアの回想1 望遠鏡。写真。分光器。 この三位一体のテクノロジーは、星が何でできているのか。星はどれほどの速度で運動しているのかについての知見をもたらした。 抜け落ちた光の波長から割り出した星の主な成分は水素とヘリウムだった。 ドップラー偏移によって、私のいる天の川銀河から、他銀河はどんどん離れて行っているのを知る。 何かの本で読んだフレーズが気に入っている。そのフレーズはこう。銀河は我々から逃げていく、と。 そう、逃げていく銀河だ。ハッブルの観測結果により、すべての銀河は赤方偏移を示しているとわかった。 それの意味するところは、銀河は観測点であるここからどんどん離れていっているということだ。 やがて後退する銀河の速度は、ここから銀河までの距離に比例することに思い至る。 それはすなわち、すべてのものは、かつてひとつの領域にあったということだ。 宇宙創造の瞬間があったということだ。時計を逆まわしにすれば、その瞬間がいつだったのかを知ることができるということだ。 先人たちはついにそれを解き明かした。 138億年前に無から有が生まれた。 我々がその答えを手にした時、永遠の宇宙という幻想が終わった。 それから100年。残されたものは遅々として進まないテクノロジーと灰色の現実だった。 既視感と息が詰まるような閉塞感。私には文明の断末魔が聞こえる。 「深刻な顔をして、何を考えているのかと思ったら」 「大体138億年って、せいぜい80年生きるのが限界の私たちにとってはそれこそ永遠みたいなものじゃないか」 「君は面白いねえ」 マイルドセブンの匂いを纏う男がクスクスと笑う。今はメビウスとか言うのだったか。 メビウス、メビウスか。心がざわつく。鼻がむずむずと疼いた。野暮ったいタールの不快な匂い。 学のない男だった。 衰退国の劣った教育システムが生んだ、考える頭を持たない男だ。 動画サイトの、詐欺師の話を有難がって見ては受け売りの空虚な言葉を延々と語り続ける男だ。 それこそがインテリジェンスだと思い込んでいる、哀れな男だ。 私は今、そんな男と駅前の古びた、しかし品のいい喫茶店の喫煙席で同席していた。 茶色の革製ソファはゆったりと体になじむ。一席一席にゆとりがあり、雑多で流動し続ける駅前の立地にあって くつろぎの空間を生み出していた。時間の流れがゆったりとしているように感じる。 先ほどから店内に出入りがないのもそれを助長しているのだろう。 しかしなぜこんな男と同席しているのだろうか。前後の流れがいまいち思い出せない。 「家畜と何が違う?」 「何だい藪から棒に」 私の中には激烈な怒りが、かつてあった。 私は移民2世だ。 両親は働きづめで休みもなく、だというのに賃金は低く、家計に余裕はなかった。 満足な社会保障も受けられず、当然高校進学などできなかった。 そんな人間に回ってくる仕事は、今も昔も単価の低い仕事しかない。 きつい、汚い、苦しいの3K仕事だ。底辺の仕事だ。そして移民差別。 この国の底に住む弱者。彼らの最後のよりどころ。純血。それを持たない移民2世など格好の差別対象だった。 弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く。どこかで聞いた歌詞のフレーズのように彼らは私を陰日向に差別した。 ある日、便器にこびりついた汚物をこそぎ落としている時に思った。このまま、無心に単純作業に従事して何になるのだろう。 古代の奴隷と私と、どこが違う? 現代の社会システムは、巧妙に奴隷の鎖を隠し、さも人生の選択肢が無限にあるように見せかけるが 結局のところ、選べる選択肢は自分の出自で決まってしまう。 口さがないものは親ガチャなどと言っているが、私はそこよりももっと深いところに問題があるように思う。 私の怒りは自然、親や社会制度や国家といったものにではなく、人間という種そのものに対して向かった。 いや、結局その怒りもぶつける対象を見つけられずに霧散してしまった。 当時幼い私に残ったのは無力感と諦め。 地上には見るべきものなど何もない。私は、だからかもしれない。星々の世界に思いを馳せるようになった。 単純労働の合間に、ビルの隙間に見える星を眺める。 それが私のささやかな心の慰めとなり、慰めはやがて興味へと変わり星の世界へ駆り立てた。 パートタイムの合間を縫うように通った市立図書館。余生の暇つぶしに通う老人、行き場のない中年。試験勉強に訪れた学生。 彼らに交じって私は星の本を読むようになった。 ローティーン向けの、写真をふんだんに使った文字の少ない本から始めた。難しい文字や言い回しは苦手だったから。 少なくない時を図書館で過ごした。星の世界から見れば刹那にも満たない、人の世界から見ればそれなりの時を。 星を知ることは過去を知ることだ。 私は紀元前から星の歴史を学んでいった。 人が無知蒙昧な時代の星の神話。 ギリシャ人たちの恐るべき思考と実験により、地球が丸いことや、すでにおおまかな地球の大きさや月までの距離を計測できていたこと。 レオナルドダヴィンチの作った望遠鏡がブレイクスルーとなり星の世界の理解を急速に深めていったこと。 そんな風に星の歴史を学ぶにつれ、どうやら伝記や星の絵がちりばめられた本を読むだけでは星の世界を理解することができないことに気づく。 物理の扉を開く必要があった。 私の星への理解は、そこから中世に入ってしまったかのように停滞する。 だが、もう私は無力さに打ちひしがれて諦めることはしなかった。 胸に灯った今にも消えそうな小さな火を、かつて捨てた怒りを燃料に何度も暖めては書にかじりついた。 ニュートンの重力論が支配していた19世紀。 ニュートンのゆりかごに揺られていた私たちをアインシュタインがたたき起こした20世紀。 そのアインシュタインも大いなる誤りを犯した。神が創りたもうた宇宙は永遠不変であるべきだという宗教観から脱出できず 宇宙定数を使って静止宇宙モデルを作り上げた。だがそのモデルもハッブルの発見によりアインシュタイン自らの手で捨て去られる。 そして20世紀末から21世紀初頭。宇宙の膨張するスピードが加速しているという観測結果がもたらされ、にわかにダークエネルギーだの 真空エネルギーだの、アインシュタインの宇宙定数は間違っていなかっただのと騒がれだした。 ダークエネルギー。 未知の物質。 ああ、星の世界はこんなにも面白い。 11/10 「だから、お前みたいなのを見てるとイライラするんだよ」 「おいおいいきなり罵倒かよ。チョッパリらしいな」 「チョッパリはお前だろ」 こいつは太い家に生まれ、親の金で大学まで通い、かといって勉学に励むでもなく毎日面白おかしく日々を浪費し、卒業後は縁故で大企業に潜り込んだ。 そして適当なパートナーを見つけて遺伝子の再生産を行い、世紀の変わり目あたりで死んでいくのだろう。 私の嫌いな人間の生き方だ。 「まあ苦学生の先輩からしたら、僕なんかはそりゃそうでしょうよ」 男は先輩という言葉を強調した。 その言葉の裏に蔑みを含めているのを私は当然に理解できている。半眼で睨んでやると男は嬉しそうにヘラヘラ笑って言った。 「いやいや、人生の先輩って意味でね。僕より年上だし?これでも尊敬してるんですよ」 「いやほんと。中々できることじゃない。少なくとも僕は無理だなあ」 「高認からの大学進学。そして理学博士だ。学力なんて大体親ガチャで決まるもんだがそこいくと君は違う」 「地の底から、失礼。恵まれない環境から這い上がってきたんだ」 地の底。そうかもしれない。星の世界を知りたいという一心でここまで走り続けてきた。 いつしか市立の図書館では、私の探究心を収めきれなくなり。その頃から私は進学を意識するようになった。 しかし、金がない。なかった。わずかな貯金すら、当時の私にはなかったのだ。 奨学金制度も考えたが、いくつかの条件を満たすことができなかった。 だがそんなものは薄汚い地上で足踏みし続ける理由にはならない。 私の資力問題は、まあ、何とか解決した。 天体物理学。 私が生涯を捧げる価値があると信ずる分野。地上の星。この道を進むためなら私はどんなことだってできる。 「君はこのまま研究室に残るのか?」 「どうだかな。研究職は魅力的だが、どうにも政治が絡むから」 「ああ君、コミュ障だもんなあ。その分じゃ今いる研究室も居心地が悪そうだ」 「……」 居心地が悪いどころか、やむをえない理由で来期には私の席がなくなっているのだが。 男はけらけらと笑って、ジャケットの胸元からメビウスのカートンを取りだすと巻煙草を一本つまみ、 デフォルメされたアニメキャラの絵が刻印されたジッポーで火をつけた。煙が立ち上る。 言いづらいことをずばずばと言う失礼な男だ。 だが腹の底で何を考えているかわからない大多数の人間よりは、マシな男だ。 少なくとも機微に疎く、腹芸ができない私にはわかりやすい。わかりやすく露悪的に振舞ってくれているコミュ強だ。 「今日呼び出したのは、先輩の進路について提案があってね」 「なんだ。天文台の職員の口でも紹介してくれるのか?」 わずかばかりの期待をこめて口にすると、男は深々とため息をつくように紫煙を吐いて言った。 「なんだ君。研究よりもアウトリーチ活動の方がいいのか?」 時々思う。私はただ、きれいな星を見ていたいだけではないのだろうかと。 探究心などはそこらに投げ捨ててしまって、ただ無垢な心で星を、優れた道具でより鮮明にきれいに見れればそれで。 だがどうやら違うようだ。私は若干の落胆を覚えつつも男の言葉に答える。 「それも悪くない。人の喜びは私の喜びだ」 「心にもないことを。人間なんか嫌いなくせに」 「……」 「僕の就職先は知ってるだろう。なんせ青色吐息の国産勢の中で、今も気炎を吐いてる古豪だからね」 アスラ製作所。 その歴史は古く200年前の商会に遡る。時の政府の保護下、海運業に精を出し莫大な富を築いた。 やがて造船業、鉱業、インフラ、エネルギー関連等あらゆる分野に進出し、押しも押されぬ大財閥へと成長した。 現在も巨大コングロマリット企業として、双璧であるユニクロ社と共に政財界に強い影響力を持ち続けている。 その企業が私を引き抜こうとでもしているのか? 国立大学への運営交付金の削減、選択と集中政策により私は来期での雇止めがほぼ確定している。 ヘッドハンティング。可能性はある。 その時、自分の姿勢が前のめりになっていることに気づいた。何でもないかのように自然と背もたれに背を預ける。 男がにやにやと笑っているのが見えた。どうも全てお察しらしい。 「この10数年、本邦の基幹産業は世界から大きく後れを取った。新たな基幹産業の創出や人材育成にも失敗した」 何やら語りだしたが、私の就職先を世話してくれるかもしれないのだ。 つまらない話になりそうだが甘んじて受け入れる。 「今はお隣さん頼みのインバウンド特需を背景に観光立国なんてぶちあげてるが」 「あんなのは麻薬と同じだ。じきに破綻するよ。地方経済やインフラや雇用やらを滅茶苦茶に破壊しながらね」 「かつての鉄鋼や自動車のような強い基盤が必要だ」 「そのひとつが宇宙産業?正直力不足だと思うが……」 悲しいかなこの国の宇宙産業はしょっぱい。 予算、ベンチャー企業の数、投資される民間の金。全てが大国に比べ格がいくつも落ちる。 衰退国である以上致し方ない話ではあるが。 「少なくともうちは、企業は金を落とす価値はあると見ている。知っての通り政府もXX年までに市場規模を現在の2倍に拡大させる目標を打ち出した」 「金が動く。お隣さんや親分さんに比べたらみみっちい額だが、成長産業になることは間違いない」 「実際この国でもスタートアップ投資のフロンティアとなりつつある」 この国では、長らく政府主導の官需産業だった宇宙産業。 そこに民間企業の参入で裾野が急速に広がり始めた。いわゆるニュースペースによって大宇宙ベンチャー時代が始まったのだ。 うちの研究室は政府の宇宙開発事業の委託先である大手メーカーやシステム企業と懇意にしている。 その主な研究対象は人工衛星からもたらされるデータの解析にまつわるものだ。 超小型の衛星群が今現在もデブリのごとく地球の周囲を周遊し、衛星画像、地表面温度、GPS情報、 電波に乗せて発信された情報、その他もろもろのデータ収集をしている。 その収集されたデータは解析され、各分野に応用されていく。膨大な情報量だ。人間の知覚をはるかに超えている。 現在私はそこで衛星が収集したデータを数値化し、さらにその数値から意味を見出すAI技術を確立させるための研究をしていた。 もちろん本意ではない。星々を眺めていたら気づけば、地上を眺めていたなんて皮肉が効きすぎている。 あの頃の私にどうして考えられる? 星の研究をするためには物理学とプログラミングのスキルが必要だなんて! 「うちも早期からそういった宇宙ベンチャーのいくつかに投資をしてきた」 私があれこれ考えている間にも男の話は続いていた。 ……まだるっこしい。 物理法則はきれいな数式で表せるのに、人の言葉というものはどうしてこんなにややこしいのだろうか。 もう限界だ。私はこの話を打ち切ることにした。 「結論だけ言ってくれ。私をどうしたいんだ?」 男は虚を突かれたような顔をしたが、すぐに破顔一笑する。 「君は本当に面白いねえ。らしいよ本当に。出会った頃から何も変わらない」 アルミの灰皿に灰を落とす。しばらく煙草を弄んで男はゆっくりと口を開いた。 「君の論文は読んだよ。我々の三次元宇宙は、四次元空間に発生したブラックホールの中から誕生したものではないかって」 「面白いよ。だが、金の匂いがしない研究だね。どちらかというととんでも仮説だ」 ばっさりと切って捨てるものだ。いっそ小気味良い。 私の研究テーマ。簡単に言えば、ブラックホールを包む2次元の膜。事象の地平面の探究だ。 「その、金の匂いがしない研究を5年。ウチで研究する気はないか」 「そりゃいい。対価に何を支払えばいいのかな」 旨い話だ。旨すぎる話だ。 コミュ障の私でもわかる、裏のある話だ。 「なに簡単なことさ。君のAIが欲しい」 「小型衛星群から押し寄せる津波のような情報から自律的に情報を収集し「意味」を見出す、君のAIが」 こういった話は今までにもなかったわけではない。 だがAIの研究は、チームを組んで行っている。私に声をかけるということはおそらく。 「それは、私よりも教授に通す話だろう。私の一存では決めかねるよ」 「言い直そう。君の組んだアルゴリズム。学習プログラムがほしいんだ」 AIの研究自体は研究室全体のものだ。だが、AIの学習プログラム。基幹となるアルゴリズムは すべて私が作成したものだ。アスラ製作所はこれが欲しいのだろう。 「実は、お隣さんからも同じ話が来ている」 男が渋い顔をした。 「奴らときたら君みたいな研究員に手当たり次第だ。だが、言っておくが好待遇には程遠いぜ」 「どうだかな。この国の通貨は価値が落ち続けているし」 「お隣さんは君の両親の国にとっては大敵じゃないか。親御さんも悲しむだろう」 「うーん」 「先輩いじわるはやめてほしいな。この国で生まれた二世なら多少の愛着もあるでしょ」 「まあね。普段は差別や自己責任を押しつけ、こういう時だけ売国奴とか言って罵ってくる性格の悪さなんか特にね」 男は苦いものを呑み込んだような顔をしている。私も。 どうしたことだろう。こんな子供みたいな当てこすりを私がするなんて。 差別だなんて。両親の国にあった、今も陰ひなたに脈々と受け継がれている制度の凄惨さに比べればそよ風のようなものなのに。 受けるべきだと理性は言っている。その通りだ。最新の研究設備。賃金も、国立大学の研究員をやるよりは色がつくだろう。 加えて5年のモラトリアム。金にならない研究を5年もさせてくれるのだ。受けない理由はない。 先ほどまでは乗り気だったはずなのに。私には私のことすらわからない。 だが感情が邪魔をするのだ。私の鎮火したはずの怒りが、理性を狂わせている。 「わかったよ先輩。この話はいったん脇に置いておこう」 「まだ何か話があるのか?」 「どちらかというとこっちが本題だ。僕にとってはね」 「……聞こう」 何だ。引き抜きの話が本題でないなんて。わからない。この男の話はいつも未知をはらんでいる。 学生の頃はそれがうっとおしくもあり、興味をそそられるものでもあった。 男はなんだかそわそわとしている。珍しい。いつも飄々としてつかみどころがないのだが。 男は冷めきったブレンドコーヒーを一口すするとテーブルに戻す。下皿がかちゃりと音を立てた。 一呼吸おいて。 「先輩。リフレイン先輩。学生の頃から好きでした。一目ぼれです」 「僕と結婚してください」 ??? 相手が何を言っているのか脳がうまく認識してくれない。 こいつは何を言っているんだ。 「えっ?んん??」 「指輪は給料3か月分の予算を組みました。実家も太いから先輩に苦労はさせません」 「残りの人生50年くらいかな。僕と一緒に歩んでください!」 お願いしますと言って男は頭を下げ右手をこちらに伸ばした。 突如店内のスピーカーからFF愛のテーマが大音量で流れ、周囲の客がやにわに立ち上がると 恋ダンスを踊り始める。何かが起こっている。私は正気を失ってしまったのだろうか。 「は?」 その時男がガッツポーズをとった。 今の私のつぶやきが、はいに聞こえてしまったらしい。 「うおおおおやったぞおおおおおお!」 祝福の声が店中を埋め尽くす。 ちょっちょっと待ってくれ。 男が3か月分の予算を組んだという指輪を私の左手薬指にはめ込もうとしてくる。 リング全周にダイヤモンドが入った指輪。エタニティリングというんだったか。宝石が途切れることなく並んでいる様子が 永遠を思わせるところから「永遠=Eternity=エタニティリング」というようになったらしい。 ここでも永遠か。ちりちりとうなじが灼ける感覚。 指輪は薄暗い店内にさしこむ日の光を反射してきらきらと輝いている。 高そうだ。一体こいつ月収いくらもらっているんだ。 いや、そうではなく。 「ほ、本当にちょっと待ってくれ!」 11/16 今急に思い出したんだけど なんか火の精霊のフレアみたいなのいなかったっけ?完全に忘れてたわ。 あいつ常夜の国来てたっけ? 恥ずかしくてもう以前のところ読み返せないんだわ。 もし来てたらすまん存在事忘れてくれ。 あと大分昔のことでうる覚えなんだけどかなり昔の部分で水の巫女リフレインと風の巫女エアがごっちゃになって 間違っちゃってる部分あるからそこも忘れてくれ。 あとなんか色々あったんだが大体忘れた。 クリムト2 「気づいていたの?」 「何となくね。職業柄、僕にはそういうのがわかるんだ」 「そう……」 クリムトは曖昧にごまかした。 アコードは感心したように何度か頷くと、やがてぼそぼそと話し始めた。 「帝国ではLGBTQの権利は認められていないんだ。かつて権利を認めた結果、とても大きな混乱が起こった」 「僕らは修正しなきゃいけないエラーなんだって。だからある程度の年齢になったらテストを受ける」 「その結果次第で修正を受けることになる。肉体と心の性を矯正して、正しい人間になるんだって」 「そうして物事は良い方に向かっていくんだって」 アコードが機械的な声色で言う。何という暴虐だろう。 クリムトは天を仰ぐ。人のこころは、こころだけは唯一自由なのに。 深い憤りを覚えながらもクリムトは言った。 「物事に良いも悪いもない。考え方によって良くも悪くもなるものさ」 「テストか。恐ろしい話だね。人のこころに干渉しようとするだなんて」 「僕のいたところならきっと大きな争いが起こるだろう」 怖れを含んだ表情でアコードがクリムトを見つめる。 ただでさえ色白のアコードが、一層青白く見えた。唇を震わせてアコードが言った。 「戦えと言うの?あなたたちが多くの血を流して、権利を勝ち取ったように?」 無理だろうとクリムトは思った。 ここの外のことはクリムトにはわからないが、この施設とそれを作った社会は相当高度に円熟していると想像できた。 その社会が人のこころに重きを置いていないのだ。 人の内心にまで干渉できる管理された社会。個人の力などで覆せるものではないはずだ。 きれいごとを言って、できもしないことをクリムトはさせない。 だから、結局いつも彼は悩めるものに対しこう問いかける。 「君はどうしたい?」 それこそが肝心なことだ。 「私は、私はこの苦しみから逃れたい……」 それを言ったきりアコードは黙った。顎に手を当てて、足元を見つめている。 深く思考しているのだ。忘我の状態にある。 アコードにとっての苦しみとは、どれを指しているのだろう。 こころを偽って生きることに苦痛を覚えるのか。 コミュニティから爪はじきにされることにこそ痛みを感じるのか。 その両方だろう。そして、それらを同時に円満解決することはできない。どちらか片方を妥協しながら生きていくしかない。 そしてクリムトは性の選択について、早急にそれを決めることは必ずしも正しい事とは限らないと思っている。 精神を成熟させていく途上。その試行錯誤の中で生じた、誤った選択だったということも充分にありうるのだ。 たっぷり時間をかけてアコードは自分の答えを絞り出した。 美しい碧玉の眼から涙があふれる。それは頬を伝って、のどを通りすぎ、鎖骨を濡らしていく。 警告音は鳴らない。心が凪いでいるのだろう。静かな悲しみが、諦観が心に満ちているのだろう。 クリムトは黙って待った。 「……ひとりは辛い。だから、皆のところに戻ってみる」 「受け入れてもらえるか、わからないけれど……」 そしてアコードは選択した。集団の中で自分を偽りながらも生きていく道を。 それが正しい選択なのか。他人であるクリムトにはわからない。 だが、言わせてもらえばたとえ肉親が相手でも自分を完全に受け入れてもらうことなんて不可能だ。 それが血のつながりがない相手ならなおさらだ。社会で生きていくのであればそれは妥協の連続になる。 アコードは立ち上がった。少しふらついていたが両の足でふんばって地面を踏みしめる。 クリムトは耳鳴りを覚えた。木漏れ日に陰りができたように感じる。世界がセピア色に色あせていく感覚。 そろそろ緞帳が降りそうだなとクリムトは察して、だから最後に大事なことをアコードに伝える。 「たったひとりでいい。君の事を理解してくれる相手を見つけるんだ」 「できるかな。こんな私に」 「できるさ。人間は何者にだってなれるし、どこにだって行けるんだから」 アコードはあいまいに頷いてぎこちなく笑みを浮かべると言った。 「まあ、なんとかやってみるよ」 そうして前を向くと、集団に向かって歩き出す。 そのまま振り返らず歩いていく。木陰を抜け、光が差す方へ歩いていく。 締まらないなとクリムトは思った。 何のために自分はここにいるのだろう。アコードの愚痴を聞くためだけか。 自分のここでの行いに意味はあったのだろうか。 アコード。常夜の王。 彼の眼鏡に適った者だけを集めた死者の楽園を創ろうとしている世界の敵。 永遠の今を繰り返す世界。ルコンが言っていた。その律は世界を澱ませ停止させると。 そうかもしれない。人は歩みを止めた時死ぬ。世界もそうだろう。 その時視界が暗転した。 おなじみの暗闇の中にいる。 クリムトは四方を見回した。やはり不思議な感覚だ。地面の感覚がなく、ふわふわとしている。 ふと小さな光点が遠くに見えた。その光は徐々に大きくなっていく。こちらに近づいてきているのだ。 クリムトは不思議と穏やかな気持ちでその光が来るのを待った。 やがて光がクリムトの全身を通過する。視界が白く染まった。クリムトは目を瞑りその眩しさに耐える。 脳裏に声が響いた。 (これで思考実験は終わり。付き合ってくれてありがとうクリムト) 「その声はアコード?」 (アコードだったもの。アコードが永劫回帰の燃料に使った揮発した情報。記憶群。そんなところかな) 「よくわからない」 (こう考えてみて。魂は電気信号の集合で、記憶や情報もニューロンネットワーク上を走る電気信号。だから情報の喪失は魂の死を意味するのだと) (なら私が常世にいるのは当然のことだと思わない?) 「言葉にするともっとよくわからないけれど、でも感覚でならわかる気がする」 (単純に言語化するなら、私は常世の王アコードから切り離されたもう一人のアコードなの) 「オーケー。完璧に理解したよ」 (フフフ……) ドラゴンボールのピッコロと神のような関係だ。 そして神から切り離されたピッコロが常世に流れてきてクリムトと接触した。 そんな感じだ。 この話でいうところのガリとルコンとまったく同じだ。 「色々と聞きたいことはあるけれど……、思考実験とはさっきの?」 (そう。私が重要だと判断したいくつかのターニングポイント。そこでもしも導いてくれるような存在がいたらわたしはどう変化したか) 「僕を選んでくれるとは、光栄だね」 (あなたが一番私の事を理解してくれる気がしたんだ……話を戻そう) (それをこの空間で記憶を元に再現したんだ。アコードに喰われなかった魂たちにも協力してもらってね) するとこの光は、アコードの魂の光ではなく多数の魂の光でもあるのかとクリムトは思った。 (無理矢理取り込んだわけじゃないから安心して。量子コンピューターと原理は同じだよ。状態の共存、重ね合わせを使ってビットを表現し……) 「???」 (とにかく大丈夫だってこと。この実験で私は見極めたかったんだ) (人の生き方は遺伝子で決まってしまうのか。環境でいくらでも変えられるのか) 「結果は聞くまでもなさそうだ」 (うん。結果は私好みのものとなった) (アコードは、見事に社会性を身に着け、周囲と上手く折り合いをつけながらそれなりにやっていく) (遺伝子じゃない。人は、命は、環境次第でいくらでも変われる可能性を持っているんだ) (わたしは何物にでもなれたし、どこにだって行けた) 光が弱まっていく。クリムトは薄目を開けて光の源を見つめる。明滅を繰り返しながら徐々に小さくなっていく白い光。 クリムトは次にかける言葉を探した。何を問う。どんな言葉をかけてやればいい。 言葉を発したのはアコードが先だった。 (この思考実験の結果を、これから常夜の王にぶつける) (自分にあったいくつもの選択肢、なれたかもしれない自分、現在の自分との比較……) (きっとひどく驚いて、しばらく彼女、足が止まってしまうだろう。後は言わなくてもわかるよね) 「アコード君は……」 (ひとつ忠告。水の巫女には注意を。あれは原子宇宙の、水素原子が凝縮された高温高密度のスープから発生した存在のコピーだけど) (蛇のように執念深く機を伺っている。目的はよくわからないが……EGGを狙っている) 「水の巫女?」 (常夜の王を倒しても気を抜かないでね。あれは君たちが最も油断した瞬間を狙うだろうから) (最後に……) (伝えてほしいんだ。ルコンに……ルコンに、私が) (私が悪かったって……) 光が弾けた。 クリムトが再び瞑っていた目を開けた時眼前の光景全てが変わっていた。 まず目についたのが山のように大きなおぞましい異形の赤子。その臍あたりから生えた4体の巨人を従えている。 常夜の王だ。次いで青色の巨人。 その巨人の後ろに、ドスが、ジョンが、半透明のよくわからない、でもどこかで見たことのある老人がいる。皆ボロボロだった。 常夜の王は水の塊をものすごい勢いで巨人にぶつけている。水弾に交じって巨大な斧が、赤い斬撃が、魔道の技が飛び交っている。 巨人たちは防戦一方だったが突如、常夜の王がびくりとしてその動きを止めた。 今まさに、アコードが言っていた思考実験の結果を突き付けられたのだろう。 千載一遇のチャンスだ。 「さあクリムト殿。行きますぞ」 突如渋いバリトンボイスがクリムトの背後から投げかけられた。 後ろを見やる。そこには赤いマントをたなびかせ、白銀に輝くプレートメイルを着ている頭頂部を禿げ上がらせた男がいた。 (……誰?) 頭の上にクエスチョンマークを浮かび上がらせたクリムトに男は名乗りを上げる。 「私の名はステルメン」 「かつて人は私を神の……。いや、慈悲の槍と呼んでいました」 「神の槍のステルメン殿か!」 ホモスの名だたる武人。その三指に必ず名が上げられる槍の名手。 クリムトは驚愕した。 ステルメンにではない。ステルメンの後ろに、失われた愛の残滓を見たからだ。 「何を呆けている。聖アコールの作ってくれた時間を無駄にする気か。行くぞ!」 ばしんと肩を叩かれた。 金色の長髪、おしろいを塗りたくり、紅のルージュをひいた道化の顔。その下に甘いマスクが眠っていることをクリムトは知っている。 永遠の別離。夢でしか会えないと思っていた最愛の存在。クリムトの目から思わず涙が一滴こぼれた。 爆発しそうな感情の昂ぶり。それを両足に伝えてクリムトは走り出した。 クリムトの後ろから聞こえる多くの足音。 死者たちが帰って来たのだ。 喜びと悲しみ。 愛しさと切なさと心強さを覚えながらクリムトは常夜の王へ向けて駆けて行った。