補足 風のさとり【五蘊皆空】 実体を空に消し去り、あらゆる働きかけを逆流させる。      【偽五蘊皆空】実体を空に消し去る。 地のさとり【諸行無常】 E=MC²。物質からエネルギーを抽出し、エネルギーを物質に変える。 火のさとり【愛憎表裏】 時間の可逆性に働きかけ、対象の時を戻す。      【偽愛憎表裏】劣化版。 水のさとり【永劫回帰】 時間の可逆性に働きかけ、世界の時を戻す。             しかし、歴史は不可逆なものだから、戻した先の世界は、元の世界とは違ったものになる。             パラレルワールドというやつである。 気になる木       巨木。その正体は事象の介入により無数に誕生するIFの世界をツリー構造に見立てたものである。ブリンダーの木のこと。              これまでのあらすじ 十万億土。 ゲッツとガリのこころが融けあう世界。 無限の荒野のその先の、一本大きな木の下で 天高く渦巻いた無数の魂の光が照らす中、神の器を完成させるための戦いが 那由多の時を経て終結した。 勝者はゲッツである。 ガリは負けた、愛ゆえにである。 後は天高く渦巻いた無数の魂のひとつの奥さんと、2、3言喋れば 満足して成仏するところである。 しかし、そこで横やりが入った。 生来の障害から異形の愛を抱えた故に狂った、恋愛体質の男アコードである。 LGBTに配慮して、彼女と呼ばうべきか。 性転換をしたのだから、やっぱり彼女と言うべきであろう。 どうしてガリとゲッツの心の世界に彼女が横やりを入れられたのかというと 彼女は、死のイデアと融合したイデア体だからである。 イデアとは最高度に抽象的な完全不滅の実であり、その影が投影されているのが我々の住む現実界なのだ。 つまりイデアとは、例えるなら上質を知る人のコーヒーで、現実はやっすいやっすいインスタントコーヒーなのだ。 イデアである彼女が、こころの世界に割り込んでこれるのは残念だが当然と言える。 彼女は、愛ゆえに盲目となっていたガリのこころを手で貫き、神の器を己に取り込んだ。 ガリは消滅した。 ※ここで、何者かが水のさとりを使用する。 ブリンダーの木からあらたな根が生える。 それは歴史が改変され、新たな世界が枝分かれした証明である。 ゲッツは、悟りを得たはずの自分が、身を焼き焦がすほどの怒りに包まれていることに気づいて 己の限界を知った。 風の巫女エアにチャンネルを合わせてもらい、お膳立てをしてもらっただけの悟りは薄っぺらい。 怒りと失望のままにアコードと相対した。    お前を許さない。 その一言は、アコードのセンシティブな部分を大いに刺激し、無意識にゲッツを殺してしまう。 驚愕と開き直り。 ゲッツを殺した勢いで世界を改変させる世界律を発動させる。 その世界律は永劫回帰。 時は循環し、あらゆる罪過は取返しの利くものになる。 永遠に繰り返す閉じた世界。 世界改新の光は、現実を消し去っていく。 そのままアコードの天下になるかと思われたが、そうは問屋が卸さなかった。 銀河の中心、重力の発生源。 そこに彼はいた。 アスラ銀河統一神ヌペトルゥである。 ヌペトルゥはアコードの世界律の薄っぺらさを嘲笑し 真の姿を現す。 彼の者の名は、閃熱の巨龍。 アスラ銀河を創造した、力ある存在である。 彼の世界律は、亡き母の理想である輪廻。 永遠の今か循環する世界か。 銀河が白く光り、やがて静寂が訪れる。 ブリンダーの木から生えている古い根はここで成長を止める。 ファイナルフォース完 ここから本編。 枝分かれした新たな根の世界。 崩壊したはずのこころの世界は未だここに在った。 荒野に佇む、青色の長髪に麻でできた青色無地の袢纏、カーキ色のニッカッポッカズボンを履き、牛革のベルトでとめている顔面偏差値75の男が呆然としている。 ( なっ何が起こった……!?) 頭上には天高く渦巻いた無数の魂の光、上霊【オーバーマインド】達の巣である【グレートハイヴ】と、気になる木【ブリンダーの木】が。 眼前には、身長195センチメートルくらい、金色の長髪をオールバッグにした、体格がっしり目 ビロードの白いひたたれに、赤色の腰巻をつけ、茶色のズボンを履いた カリブの海賊の下っ端みたいな恰好の男、ガリと、長い耳の青白く発光した女人型のエネルギー、 ガイアが見つめ合っている。 先ほどのアコードの凶行がなかったかのような……事実なくなっていた。 (いや、これは!) ゲッツの背を怖気が走る。 ゲッツは、己が消滅する前世界の体験を覚えていた。 はじかれるように走り出す。 「ガリッ!」 両手でガリを突き飛ばす、直後にゲッツの腹から手が生えた。 いや、アコードに背中から腹を貫かれていた。 「うぎゃあああ!」 咄嗟のことだったため、風のさとりを纏うことを忘れていた。 しょせんにわか仕込みのさとりである。 いや、確かに融合する前のゲッツは、涅槃にたどり着き、何がしかの解を得た。 だが、ガリベースで融合した際ゲッツは、己の悟りは己だけのものだとして、ガリに伝えず情報にロックをかけた。 これが情報の喪失を招いた。 その後ガリが、融合により風化する怒りと執念に焦り、 融合体から無限の器と自身の情報をオーバーボディ【稲妻の巨人】に移し替えた。 融合体の抜け殻には、ゲッツが残った。 涅槃で得たはずの悟り、そのロックを解除する方法を失って。 もはやゲッツは、にわか仕込みのさとりしか纏えない。 ゲッツは激痛にのたうち回る、この痛みは存在を傷つけられた痛みだ。 アコードのソウルスティールは、ゲッツを一撃でひん死に陥らせた。 「もうっ何で邪魔するの!」 金切声で抗議するアコードは、ゲッツの腹から両手を引き抜くと、ゲッツの背中を右手で押した。 「ぐわあああああっ!」 たまらず吹き飛ぶゲッツ。 「アコードォ!」 憤怒の顔で、ガリはアコードに突進した。 日大仕込みの悪質タックルである。 「くらえああああああっ!」 凄まじいエネルギーを秘めた雷光のタックルをアコードは飛び上がって躱し…… 空で何かに掴まれたかのように動きを停めた。 まるでアダムスミスが著した国富論にある有名な言葉、神の見えざる手が この世に顕現したかのようだ。 「おっおっ!?」 アコードは体をよじって抜け出そうとするが万力に締め上げられているかのようで 微動だにできない。 「地のさとりよ。」 ガイアが囁くようにアコードに語り掛けた。 一見何もない空間だとしても、そこには必ずエネルギーが満ちている。 地のさとりはE=MC²。エネルギーから物質を生成し、物質からエネルギーを抽出する魔法。 その魔法で、見えざる手を作り出したのだ。 よくわからないが、そういうことなのだ。 「あなたはいわばまさに、見えざる手に掴まれているの。」 アコードはいわばまさに、まな板の鯉だ。 「うおおおらァッ!」 しかし、体からヘドロのような黒いものをドロドロと吹き出しながら、アコードは力任せに手を振りほどこうとしている。 アコードの体が膨張を始め、青黒い逆子の体へと、死のイデアたるオーバーボディ【常夜の王】へと変生していく。 やがて身の丈12メートルくらいの、ぶよぶよした腐った卵のようなにおいのする異形の赤子が現れた。 足元からは腐臭のするもやが立ち込める。 生あるものがそれに触れれば腐れて死ぬ猛毒である。 赤子の臍のあたりから女性の上半身が皮を突き破って生えた。 「常夜の王を舐めるなッ!」 その力は常夜の国を離れ減衰しつつあるとはいえおよそ4300億フォース。 単身で星を滅ぼすほどのパワーを秘めた怪物である。 見えざる手の拘束が、外れようとしている。 だが 「舐めているのはお前だ。」 数分前のしおしおにしおれた男の姿はもはやどこにもない。 巻き戻った世界は、最高のパフォーマンスでガリを送り出した。 46億年に及ぶ修練の末たどり着いたフォースの秘術と、ついに掌握した無限の力。 それらが結実し、放たれる極光。 ゴッドサンダー-地の恵みたる見えざる手を添えて― その神技の実態は、全力の日大タックルである。 魂が電気信号の集合であるのなら、自分の全てを電気信号に変え、代替のボディに移し替えることで 永遠に近い生命体にいたる。 ガリは、万雷のヒトガタに電気信号を循環させたもの、オーバーボディ【稲妻の巨人】と化し 無限のフォースにものを言わせた一条の怒れる雷となってアコードを貫いた。 十万億土全土が白に染まり、少し遅れて轟音が鳴り響く。 その音は世界の崩壊を告げるラッパの音、アポカリプティックサウンドだ。 こころの世界を壊すことは誰にもできない。 だがもしもこの世界が現実に存在していたのなら、土くれ一片に至るまで 全てが砕け散っていたに違いない。 アスラ銀河すら崩壊させるほどの凄まじいエネルギーなのだ。 耳鳴りがするほどの静寂が戻るころ、しかしそこにアコードの姿はなかった。 「逃がしたか。」 苦虫をかみつぶしたような顔をしてガリはつぶやいた。 「イデア体、厄介な……。」 既に巨人形態から生来の姿に戻っている。 「宿命が彼女を生かしたの、まだ役割が残っているのよ。」 「宿命……。」 今日日めずらしい女言葉である。 ガイアは46億年前、とある辺境惑星の地方豪族の娘であった。 土の巫女と敬われ、やがて天からの来訪者、異星人であるガリと契りを結んだ。 しかし子を失った苦しみから世を厭い、土の巫女の権能を用いてひとり十万億土へ旅立ち、 長い旅路の果てに上霊【オーバーマインド】となった。 彼女たちは、グレートハイヴこそがすべての魂の終着点だと言う。 そこは、膨大な知識が心を駆け巡り不安はなく暖かい理想郷なのだと。 だが… 「ガイア、お前体が……。」 青白く発光していたガイアは、今や色を失い徐々に形が崩れ始めていた。 「下界の事象に干渉しすぎた、私の情報をグレートハイヴは危険と思ったみたい。」 「俺は神に成った、今お前にオーバーボディを作ってやる。」 ガイアは微笑んだ。 上霊というカテゴリから外れ、グレートハイヴというくびきから外れ ガイアはどんどん人間味を取り戻していく。 人間に戻るにつれ体の崩壊が進む。 「宿命よ。」 「そんなもの、俺が壊してやる。」 ガリは鼻息荒く、目を血走らせた。 彼はずっと、そうやって生きてきた。 彼はいつも怒っていた。 母親を失い、兄を失い、子を失い、宿命はいつも彼から大切なものを奪っていった。 宿命だと、ふざけるな! 「俺は、神に成ったんだ。」 自分に言い聞かせるように呟いた。 「旧い神を弑し、エンディミオンの魂を取り戻す。」 「俺の圧倒的な力でこの世をまとめる、そうしたら俺は、エンディミオンとどこか暖かな土地で暮らしていく。」 「ガリ……。」 「俺は、お前を許さない……。だが子供には母親が必要だ。」 「……。」 ガイアはさみしく微笑んだ。 「エンディミオンなら、ここにいる。」 手を伸ばし、ガリの胸に手を添える。 「こころに、大地に、星々の、小さな素粒子の一粒にだって。」 ガリは目を見開き、わなわなと体を震わせた。 怒りが体中を駆け巡り、目の前が真っ赤に染まる。 まるで痛みを堪える老人のような顔だった。 「俺はそんな、スピリチュアルな話をしているんじゃない!実際の話をしているんだ!」 「力を手に入れたから、これからすべてを取り戻しに行くっつってんだよ!!」 ぜいぜいと息を荒げてガイアを睨みつける。 「お前には、聞こえないのか!エンディミオンの声が!!」 叫んだ。 それは、ガリの悲鳴だった。 ガリの耳は、彼にしか聞こえない声を拾っているようだった。 ガイアの体は徐々に崩れていく。 砂粒のように端から崩れていく。 さらさらと崩れていく。 崩れながらも祈るようにガリに囁いた。 「ならぬことはならぬもの、古きは滅び、新たなものだけが、先へ進む。」 「あなたの半身が輪廻を受け入れ、新生したように。」 「あなたも、受け入れてほしい。」 ガリは黙ってしまった。 エンディミオンは、ガリの目の前でヌペトルゥに喰われてしまった。 神の、世界の延命のため、新世界の神となるはずだった息子の魂が必要だったのだと 後にメッセンジャーから聞いた。 メッセンジャー……、グレートハイヴの周りをうろついて、おこぼれにあずかろうとするガス状の生命体。 神に等しい力を持ちながら進化の袋小路に陥って、それでもなお上霊に至ろうとする哀れな存在だ。 グレートハイヴはブリンダーの木を健やかに成長させる、庭師のようなものだ。 その庭師の使いっぱしり<メッセンジャー〉というわけだ。 だが、彼らの援助なしでは、ガリはここまでこれなかっただろう。 だからこそガリは彼らに一定の敬意を払うし、自分と長年行動を共にしてきたあの個体、 【トゥルーマン】には特別の愛着を持っている。 目的は違えど、仲間だと思っている。 「……。」 エンディミオンの遺体は残らなかった。 だからガリは、ガリにとってエンディミオンは、永遠に生と死のはざまにいるのだ。 今も助けを求めているように思えるのだ。 ガリはずっと、頭の中でエンディミオンと対話をしていた、夢想していた。 その夢の中ではエンディミオンはいつまでも6歳で、天使のようだった。 いろんな話をした。 綺麗な風景について、要領のいい生き方、世の中には悪い人間の方が多いという悲しい事実、自慢話。 だからこそ46億年の孤独を耐え続けることができたし、なんだってできたのだ。 エンディミオンの魂は、今もヌペトルゥのもとにある。 声が聞こえるのだ。 助けを求めている。 助けを求めているんだ! 母親なのに、どうしてそれがわからないんだ!! そう思えて、そう思えるからずっと、ずっと頑張っているのだ。 だというのに、ガイアはエンディミオンが消滅してからこんな調子だった。 何もかも諦めたような顔で、毎日ため息などをつき、がりがりに痩せた。 ついには自分のもとから去っていった。 それがガリには辛かった。憎くさえ思っていた。 エンディミオンは、今も助けを求めているというのに! ガイアは、自分たちを裏切ったのだ。 だが、彼女の献身……。 下界への度重なる干渉は自死に等しい行為であったろう。 現に今、ガイアはグレートハイヴから切り捨てられ、崩壊を始めた。 それらは、ガリへのサポートの為であったのは想像に難くない。 ガリは、そこにガイアの愛があると信じたかった。 「ガイア、もう一度やり直せないか。」 だから、ついに本音を吐き出してしまった。 ここが、こころの世界だからかもしれない。 「もう二度とお前たちに悲しい思いをさせない。それだけの力をやっと手に入れた。」 「俺には、お前が必要なんだ。」 口にして、ガリは苦い気持ちになった。 これじゃ俺がDV野郎みたいじゃないか。 半身との対話は、あんなにもスムーズに想いの全てを伝えられたのに どうして他者相手だと、こんなにも想いを伝えるのが難しいのだろう。 壊れるほど愛しても 1/3も伝わらない。 純情な感情は空回り I love youさえ言えないでいる My heart……。 「私も、あなたが必要。」 ガイアは何度か深呼吸をして、微笑みを作ろうと悪戦苦闘していたがついに失敗した。 顔をくしゃくしゃにして、そして声を絞り出すようにして叫ぶ。 「エンディミオンは死んだ!」 「もう静かに眠らせてあげよう。いつまでもあなたがそんなだと、あの子が迷ってしまう!」 「現実を受け入れて!」 「あなたのエンディミオンは、あなたのこころが生んだ迷妄の人形なの!」 崩れていない方の手で何度もガリの胸をたたく。 自分の言葉が相手に届くように、響くように何度もたたく。 何度も何度も。 その言葉は確かにガリに届いた。 見開いた目から涙が滂沱の如く溢れる。 エンディミオンは6歳で死んだ。死んでしまった。 自分の力が足らず助けられなかった我が子。 認められなかった。 認めたくなかったのだ。 ガリの胸中をいくつもの死がフラッシュバックしていく。 兄と自分を逃がし、敵兵に膾斬りにされて死んだ傭兵の母。 徴兵され、遠い星系でドローン兵器に殺された兄。 失われた国、愛などないと思っていた血族たち。 いつも見ていることしかできなかった自分。 涙が次から次へと溢れてくる。 自分はこんなに泣く男だっただろうか。 いや、半身が指摘したように自分は、いつも泣いていたのだ。 「助けたかった……。」 「力があれば、すべてを守れると思った……だが。」 「俺の想いが、妄執が、お前を苦しめて、涅槃に旅立たせてしまったのだな。」 「そして今も、悲しませている。」 「俺は馬鹿だ……。」 「やっと気づいたの?」 「オイっ!」 ガイアは破顔して、コロコロと笑った。 泣きながら笑った。 ガリは虚を突かれる思いだった。まるであの頃に戻ったかのようだった。 そう、ガイアはよく泣いた、それ以上によく笑っていた。 詩吟を愛する、今はもうないあの大地のように、感受性の豊かな女性だったのだ。 ガイアは笑い続けた。 その顔があまりに嬉しそうなので知らず、ガリは微笑んでいた。 なんだか憑き物が落ちたようだった。 半身との長い旅路と、ガイアとの対話が、ガリに大きな変化をもたらしていた。 ガリは、ようやくエンディミオンの死と向き合える気がしていた。 さらさらさら さらさら ガリはしばらく目をつむって、頭の中のエンディミオンに語り掛けていく。 (すまなかった、至らぬ父であった、お前をずっと迷わせてしまった。) エンディミオンは微笑んでいる。 46億年間、ずっと変わらずに微笑んでいる。 つむった目から涙があふれた。 そうだ、エンディミオンは死んだ。 ここにいるのは、俺の心を慰めるための人形なのだ。 人形、なのだろうか。 ワナワナと体が震える。 その振動でガイアの崩壊が進むほどであった。 さらさらさら さらさら 砂粒がこぼれていく。 たっぷり時間をかけて、心の整理をつけると、ガリはエンディミオンに語り掛けた。 (今こそ、お前を解き放つ。鬼籍に入り、安らかに眠れ。) エンディミオンは微笑んでいる。 微笑みながら自分に手を振ると、駆け出した。 駆ける大地は、やがて確かな輪郭を持ち、ポルポトースの大地に変わっていく。 黄金に輝く稲穂の海と、原始的な4枚羽の風車が立ち並ぶ牧歌的な、今はもうない大地。 駆けて、駆けて、ついに見えなくなってしまった。 ガリの迷妄を連れて、行ってしまった。 もう声は、聞こえない。 「終わったよ。」 「そう……。」 気づくと、ガリは抱きしめられていた。 暖かい、懐かしい暖かさが体のこわばりを解きほぐしていく。 ガリは、何かが終わったと感じていた。 それは、人によっては宿命だの業だのと呼ぶものかもしれない。 さらさらさら さらさら さら 「私も行くわ。」 輪廻の大渦。 ヌペトルゥの定めた世界律の根幹。 魂はそこですべてを洗い流し、再び世界に拡散していく。 ガイアは微笑みながら言葉を続ける。 「私達の宿命は今、終わった。」 「俺とともに、永遠を生きるつもりはないか。」 未練であった。 ガリの言葉に、ガイアは申し訳なさげに、しかしきっぱりと答える。 「永遠なんて、ないわ。」 「あのかわいそうな龍のように、死に怯えて、カルマを積み上げて、それでもいつかは終わりがやってくる。」 「その懊悩が長ければ長いほど、終わりは辛いものになる。」 「生きながら、地獄にいるようなものよ。」 ガイアはヌペトルゥを憐れんだ。 我が子を殺し、夫を迷妄の牢獄に追い込んだ仇敵を、心から憐れんでいた。 いったいそれはどういうこころの働きであるのか。 ガリはその途方もなさに言葉を失う。 「あの日から、ずっと歩いてきた。」 「上霊を目指し、一度はグレートハイヴにたどり着いたけれど。」 「それが唯一無二の正解であったのか……一度全てを洗い流してもう一度探ってみたい。」 「私たちは、どこから来て、どこへ行くのかを。」 「……。」 ガリは眩しいものを見るかのようにガイアを見た。 意思の強さを感じさせる鋭い瞳。 彼女は既に次のことを考えている。 輪廻の大渦ですべてが洗い流されてしまったとしても、幾度もの生を繰り返したとしても、 ガイアは解を得るに違いない。 いつか、きっと。 「……。」 身の内に無限の器を感じる。 望めば、この銀河を作り替えるほどの途方もないパワーだ。 しかし、ガリはその力に、虚しさを覚えていた。 肉体を越えて、死を越えて、手にしたこの力。 右手を握りしめる。 (この振り上げた拳を、どこに振り下ろせばいい?) 兄が死んだ日の激情が、フラッシュバックする。 さらさら さら 長い時をかけて、ガリは握りしめた拳を開いた。 「ガイア、道連れが欲しくはないか。」 ガイアはにっこりと微笑んだ。 その様子を、ゲッツは見ていた。 腹に大穴があき、激痛に悶えながらも、 それでも半身の、長い長い旅がついに終わるその時を、じっと見つめていた。 (良かったな。) 長い間苦しんだのだ、報われなければ嘘というものだ。 どんな形であれ半身が納得して逝けるのなら、それは祝福すべきだ。 輪廻の大渦は、すべてを洗い流してしまうだろう。 しかし、何もかもが消えてしまうわけではない。 必ず残るものがあるはずだ。 あって欲しいとゲッツは願った。 ガリが、ガイアを抱き上げる。 (なんだ、ハネムーンにでも行く気か?) こちらを振り向き、目で合図を送ってくる。 (こっちへ来いって?おいおい、俺は腹に穴が開いてるんだぞ!) 半身はこういうところがあるよな。 気が利かないんだよ。 ゲッツは痛みを堪えて、半身のもとへ急いだ。 「色々と、手間をかけたな。」 穏やかな顔だった。 十万億土を旅して歩いた、くだらない遊びをしていたあの時よりもずっと。 ゲッツはふと、魔剣士ムサマンを思い出した。 肺病に冒されながらも、剣に殉じた剣士の目。 透き通った、あの達観した目を。 「手間なんてレベルじゃなかったけどな、お金を請求するレベル。」 しばらく見つめ合って、どちらともなく噴き出した。 笑って、すぐに痛みに顔をしかめる。 「その傷は、あなたという存在の核を傷つけている。」 ガイアが言った。 「あなたがいま感じている痛みは精神的疾患の一種よ。しずめる方法はガリが知っている。彼に任せて。」 ガリは深くうなずき、ゲッツの腹の傷を一瞥すると言った。 「ようするに、バチーンと蓋をすればいいんだ。幸い、これから行き場を失う力がここにある。」 ガリは、ガイアの背に回していた手を、ゲッツに向けた。 そこから金色に輝く直径50センチメートルほどの玉が現れる。 それこそが、無限の器【ファイナルフォース】だった。 アコードが欲した、世界改新の勅令を発するための器。 無から有を発生させるほどの力を納めた神の器。 ゲッツは畏れを覚えて、無意識に後ずさった。 「俺には、何のヴィジョンもない。」 いや、ないわけではないが、皆が幸せに暮らしていける約束の地とかいう 小学生が丸い地球を書いて、地表に手をつないだ色とりどりの人種を並べて立たせているような その程度のヴィジョンである。 融合する前までのゲッツは、確かに形にした理想を手にしていたのだが……。 思い出せないんだな、これが。 ガリは言った。 「アコードに渡るよりはいい、あいつのヴィジョンは……。」 ゲッツの胸中に前世界の記憶がよぎる。 永遠の今、誰もが過ちを取り消せる世界。 永遠の今。 その世界は、きっと澱むだろう。 輪廻の大渦もない、凪のような閉じた世界だ。 今よりもずっと。 「わかった、とりあえずもらっておくよ、いい加減痛くて辛いんだ。」 ゲッツの腹の大穴に金玉がスポっと入った。 しばらく明滅すると、溶けるように消え、腹の大穴もふさがっていた。 ……… …… … それ以外に特に変化はない。 生命力も1800フォースのままだ。 世界改新の詔など、とても出せそうにない。 その事実は、少なからずゲッツを落胆させた。 馴染めば、無限の力を使えるようになるのだろうか。 「肝心なのは理力よ。」 ガイアが囁いた。 理の力<パワーオブラヴ〉。 ガリが無限の力で放ったワールズエンドスーパーのヴぁを跳ね返した、無限を超える情念の力。 そうだ、最後に絶対愛が勝つのだ。 ふと、ゲッツの脳裏にネミリの顔が脳裏をよぎった。 料理が上手な、亜麻色の髪の乙女。 あとミナモ。 愛ってなんだ。 「お前、まだネミリのこと引きずってるのか。」 ガリはあきれている。 ゲッツは、 こういう時、すべてを共有した半身がうざったく感じるんだよな、 なんて考えながらそっぽを向いた。 ネミリという名前に、ガイアが反応する。 「ネミリ、真ゴッデスを作った料理人ね。」 「知ってるんですか!」 驚くゲッツをしり目にガイアはため息をついた。 「世間は狭い……いや、これも宿命か。」 「彼女とはブリンダーの木の下で色々話をしたの。お願いもしちゃった。」 「でも、運命は私の予想を外れた、あのお願いも宙に浮いちゃったな。」 「???」 「そうか、振られちゃったんだね。」 ゲッツは下を向いた。 「ああ、こいつ、ネミリの為に火のさとりを使ったのに、あっさり振られたんだ。  その気になっていたお前の姿はお笑いだったぜ。」 「うるせー馬鹿。」 ガイアが再びはっとしたような顔をして、続けて言葉を紡いだ。 「…私は、上霊となった時からマクロの視点ですべてを見ていた。」 「それは、すべてを知っているということにはならない。」 「でも、ある程度流れを予想することはできる。あなたのことも。」 「当たるも八卦、当たらぬも八卦だけれども。」 ゲッツはガイアが何を言いたいのかわからず、首を傾げた。 ガイアの崩壊は間近で、だというのに何でこんな話を続けるのだろう。 ガイアは口を開いた。 「手短に……もっとグイグイ行っていいかも。」 「気になる人がいたら、自分からアプローチしたり、ストレートにデートに誘ってみましょう。」 「自分では好意を伝えているつもりでも、相手には伝わっていないのかもしれません。」 「攻めの姿勢で行きましょう。押せば落ちると思っていいかも?」 「でも、しつこいのはNG!」 「こんなん出ましたけど。」 「えっ?」 突然ガイアが、恋愛運占いみたいな、それお前の匙加減だろ的なことを言い出した。 電波、届いた? 頭にアルミホイルを巻くといいかも? だが、考えてみれば、ガイアは土の巫女だ。 大地を神に見立てるならば、多産、豊饒をもたらす存在、大地の豊かさを司るものになろう。 その巫女が、このような占いをするのもおかしな話ではない。 実際にやっていたのだろう。 今やることではない気もするが。 しかし、ふわっとしたポジティブなことを霊験あらたかそうな巫女に言われたことでゲッツの体に活力が湧いてくる。 彼はいつもそうだった。 絶望することを知らない。 どれほどの辛酸を味わっても、何度叩きのめされても、その度に這い上がってきた。 目に、決して失われぬ輝きがある。 生まれながらに不撓不屈の男なのである。 「ありがとう、ガイア。何だか自分のするべきことが定まった気がする。」 ガイアは微笑んで、そこでついに力尽きようとしていた。 ガリがガイアを強く抱きしめて言った。 「アコードは、狂っている。だからこそ、強い。」 「お前が無限の力を我がものとしても、なお危うい戦いになるだろう。」 「ああ。」 ゲッツはアコードのことを想った。 水の魔将であることを隠して、自分に近づいてきたアコード。 仲間だと思っていた、友だと思っていた。 だが、あいつは裏切った。 仲間を死に追いやり、平然と笑っていた。 涅槃にたどり着いた俺ならいざ知らず。 絶対に、許すことはできない。 ゲッツは戦意を昂らせる。 ガリはそんなゲッツを見て、一拍置いて言った。 「勝ちたいのなら、お前の父と、もう一度会え。」 「会って、どんな形でもいい、決着をつけろ。」 「お前のフォースが不安定なのは、それが原因だ。」 ゲッツは雷に打たれたように立ちすくんだ。 脳裏をいくつもの情景が走る。 父、ボトム。 ルコンという名は、父が考えたのだという。 いつもぼうっと遠くを見ていた、満たされない顔をしていた。 夢破れ、くすぶった人間だった。 農家のわりに、家は裕福だった。 沢山の蔵書を持っていて、その大半が兵法書だった。 雨の日は高価な安楽椅子に座り、本を読んでいた。 しかめ面で、本を読んでいた。 時々、狩りに出て獲物を獲ってきた。 その時だけは、父が好きだった。 父も自信に満ちていて、機嫌よく自分の頭を撫でていたものだ。 台風の日、堤の様子を見に行ってそのまま帰ってこなかった。 死んだと思っていた。 だが、火の魔将レギオンとして、敵としてあいつは現れた。 そして奴は手を切った、文字通りに。 あの日、俺はルコンという名を捨てて、ゲッツになったんだ。 「……。」 希薄になっていく気配にゲッツは意識を戻した。 ガイアがいよいよ消えようとしている。 寂寥が胸を満たす。 ガイアはもう、喋ることもできない。 最後の会話が恋愛運占いって、どうなんだろう。 ガリが続けた。 「まあ、無理ならいい。」 「負けていい戦いなんて一つもない、誰もが勝利のためにあらゆる手段を講じるべきだ。」 「だが、自分を曲げて、自分を殺してまで得るものでは、ないのかもしれん。」 だからこれはアドバイスだとガリは言った。 「力及ばず、負けたとしても……自分を許してやれ、神ならぬ人が、できることなんて限られているんだから。」 「戦う前から負けること考える奴がいるかよ。」 「違いない。」 大体半身に言われたくはないとゲッツが言うと、ガリは大いに笑った。 ゲッツも笑った。 こんなに諦め悪く、勝ちにこだわった奴が負け方のアドバイスだぞ! いよいよガイアが消えようとしている。 ガリはタイミングを合わせている。 最後にゲッツを見た。 「自分を許すことができて、初めて他人を許せた。」 「こんなに安らいだ気持ちは、久しぶりだ。思えば転機は、お前と十万億土を歩き始めてからだったな。」 お前のおかげだ、ありがとう。 ガリはそう呟くと、己の胸を右手で貫く。 そのまま存在の核を取り出すと、握りしめて砕いた。 砕いて、消えた。 それは、ガイアの消滅と同時だった。 良かったなと、ゲッツは思った。 終わり良ければ全て良し、色々あったが、ガリはいい人生を送ったのだ。 半身の消滅は、寂しくもあったが、どこか爽快であった。 半身が消え、こころの世界が崩壊を始めていく。 崩れていく荒れ野、ブリンダーの木はもう見えない。 頭上のグレートハイヴが怪しく輝いた。 ゲッツはふと、あの時誰が世界を巻き戻したのだろうと考えた。 その考えは、足場が崩れ奈落に落ちていくことで霧散した。 さあ、忙しくなるぞ。 アコードの野郎、ぶっ殺してやる! ゲッツは、来るべき激戦を前に武者震いをするのだった。 続く